藤村昇太郎のプロセス

〈Ship〉から半年を経て

前回のレポートでは「自分にとっての演劇」を考える前に、まず自分にとって「演劇」とはなんだろうからスタートし、接客業のようなサービスとして芝居をしている人達と、舞台で芝居をしている人達の垣根があまり無いように感じたことから、もっと濃い芝居をしていると感じることができる、私たちの周りにいるちょっとおかしな人達こそ舞台という場所で行うにあたる演劇ではないか、と考えた。そうした人達のおもしろさは、会話が成立しない、次の瞬間何をされるかわからないといった、恐怖感を伴っている。発表の際には人の恐怖を形にすることが難しかったため、対話の成立はしていないが、対話は成立しているように感じられるよう、お互いフラットな状態で、ただ声に出して読んでもらうというテキストを作成した。

自分にとっての演劇を考えた〈Ship〉の一週間から半年以上が過ぎ、今ではどのように感じているかを、書いてみようと思います。

【周りとは違う人】

半年以上が経過した今でも、やはり自分にとっての演劇と言うと、明らかに周りとは違う空気を持っている人達が目に浮かぶ。何かについてずっと怒っている人、喫茶店で別れ話を持ちかけられている人、明らかに悪い人達に悪い商談を持ちかけられている人。そうした状態にある人達は、いわゆる「普通」とは違い、何かを発している状態にある。

多くの人もそうだろうと思うが、普段私は、何かを発さず、または発しないように振る舞っていることが多い。「発している状態」とは、妙な雰囲気や、感情が全面に漏れ出て、観ただけの情報ではなく何かを纏っている状態のことを言っている。イライラしているからという理由で、イライラしていますというアピールはしない、というような。もしも、そんな人が身近にいたらと思うとゾッとする。ずっと怒っている人と仕事をするだなんて、考えただけでも恐ろしい。円滑なコミュニケーションを行うためには、両者とも余計な気を遣わないでいいように、フラットな状態であるほうがいいと考える。

前回「〈Ship〉Ⅰ」の公開シェアでの藤村。このあとテクストを使った参加体験型のレクチャーが始まった

前回「〈Ship〉Ⅰ」の公開シェアでの藤村。このあとテクストを使った参加体験型のレクチャーが始まった

【的確に伝えるために】

なぜそのフラットな状態がいいのかと言うと、言葉が伝わりやすいからだ。

○○してほしいと伝える際に、号泣している相手にはなかなか言いづらい。多くの方は泣くのを待つか、気持ちを落ち着けるため相手にしたい話ではなく、別の話題で話しかけたりするだろう。もしも自分が泣いてしまったり、嫌なことがあったとしたら、フラットな状態に戻れるように、好きなことや落ち着けることで気分転換をして調整する。そうして相手を気遣い、思いやりながら、自分の情報を伝えていく。自分をコントロールしながら話すことができるのは、人間のすごい所だと思う。

ただ、中には「相手を思いやる」ことが苦手な方もいる。(どうしようもなく嫌いな人に対してはなかなか難しいこともあるが)さらには、「相手を思いやる」ことが出来ない、またはそれがわからない方もいる。

例えば、今、自分がすごく忙しい状態で、他の人からの話を聞くのが難しい時、その状態で何気ない話をしてくる人が居たとする。こういう時にどうするか?余裕が無く、第三者から見ても忙しいと思われる状態で、平然と話しかけてきてしまう相手には、なんと伝えればいいのだろうか。

もしも、微塵も余裕が無い状態で、かつストレスもピークであったなら、あらゆる罵詈雑言が思い浮かぶ方もいるだろうが、相手を思いやれる人ならば「ごめん後で聞かせて」「ちょっと待って」といった、怒りで押しのけるのではなく、自分の状況を伝えて断る選択肢が考えられる。または、笑顔で手を前に出し、「ちょっと待ってね」のジェスチャーで伝えることもできるだろう。相手がわかっていないからと、感情に任せて怒ってしまうのは間違っていると思う。わかっていないのであれば、注意としてそれを伝えることや、相手がわかっていないことを受け入れて、対応を変えてみればいい。相手へ的確に情報を伝えるためには、こちらがフラットな状態にならなくては感情面が付与されて余分な情報まで伝わってしまうからだ。

このことから、「相手と対話をしている」と言えるには、必ず条件が発生する。その条件は相手と自分が対話を出来る状態、つまり感情の波が穏やかで、相手の感情の波を受け入れることが出来るフラットな状態にあること。片方が怒っていたり、泣いていたり、笑っていたりなどの感情が見えると「相手を怒らせている・泣かせている・笑わせている」といった、別の見え方がくっついてくる。

だが、お互いにフラットな状態で対話をしているのに、その対話の意図がわからないというとても異質なことがあった。

【日常で起きた非日常】

なかなか、初対面での第一声で対話の意図がわからないという経験は多くはないと思う。大抵は一緒に仕事を始める集まりだとか、お互いに体裁を意識して話をするだろうが、そういうことを気にしなくてもいいような、公共の場、電車や店で話しかけられることがある。基本的に話しかけられることが無いと思われる場所では、声をかけられたとしても道を尋ねたいだとか、落し物を教えてくれたりだとか、そういうこと以外ではなかなかない。前回のレポートにも書いてあることを持ってくると、電車で名古屋へ行く途中、急いで入ってきた中年男性に「これは名古屋に行きますか?」と聞かれ、はいと答えた。普段ならここで終わる話が、次にその中年男性は「握手してもらっていいですか?」と言った。私が断ると中年男性は電車を降りて行った。

一体彼は何を目的として電車に乗ったのだろうか。電車に乗るということは目的地に行くためであるのに、握手を断ったらその電車を降りてしまった。もしも、握手をしたいがために、してくれそうな人を求めて電車に乗ってきたのだとしても、彼はなぜ発車まで時間のある電車に「急いで」乗り込んできたのだろう。

前回のレポートの際には、おかしな出来事として説明した話だが、改めて分析すると対話の構造がおもしろい。男性は急いで入ってきているものの、落ち着いた口調で話しかけてきた。お互いにとてもフラットな状態であり、相手の言葉をしっかりと、お互いに受け取れている。なのにやりとりがおかしいというこの出来事が、日常で起きていることではあるが、とても異質であった。

【自分にとっての演劇】

私が演劇でおもしろい、と思えるものは、上記のようなちょっとおかしい人や異質な会話などの、ざっくり言うと非日常的な展開が、日常に織り交ぜられているようなものだったり、日常的な展開であっても、非日常的な人がいるようなもの。あまり頻繁に舞台を観に行けるほど、稼ぎが少ないので恐縮だが、まだあまり出会えていない。ただ、そういう展開が無くとも、そういう登場人物が居なくとも、日常を主にした展開なのに、どんどんおかしな方向へと読み解いてしまうよう仕向けられていたり、俳優の演技が練りに練られて異質なのに正当性があったりする作品に出会えた時は、とても嬉しい。私自身が、俳優業とちょっぴり台本を書いたりするので、戯曲と俳優の目線で捉えたいものがあるからだと思うが、いいなと思えるのは異質さに魅せられてしまうもの。

半年を経た今、少しハッキリしてきた。自分にとっての演劇は、普段の生活があるからこそおもしろいと思えるモノであり、それが人間の怖さ(何かを発している状態にある人)や異質さ(会話の意図がわからない人)に触れた時に日常とのズレを一層感じることができるものだ。

公開シェアのあとのトークイベントで快活に意見を述べる藤村

公開シェアのあとのトークイベントで快活に意見を述べる藤村

【私が演劇で受けているモノ】

ただ、私が演劇で受けているものに視点をずらしていくと、新たな発見が出てきた。それは他の人を見て、自分が普通だと再確認したいがためのものなのかもしれないということ。他人のおかしさを観て、自分は普通だと思わせてくれるものが、おもしろさと同時に自分が演劇で得ているものなのだろうか。

というのも、私がおもしろいと思える、何かを発している人や話の意図がわからない人は、確かにおもしろいと思えるのだが、同時にすごく怖い。できれば会いたくないという気持ちもある。人の汚いところや怖い部分を見るのはとっても嫌だ。なのに、「でもおもしろい」が付いてきてしまう。

正直、電車で中年男性が手を差し出してきたとき、この手をとらなかったら殺されてしまうのではないか?とまで考えていた。とても悪い方へ考えてしまう。その時でさえ「でもおもしろい」が出てくる。

ただ、直接的な暴れん坊などには、変なことを言うかもしれないが品性を感じない。確かに怖いし、嫌な気持ちにさせてくるが、それだけだ。存在しているだけで目を引くような魅力があるのが『何かを発している状態』にあるちょっとおかしい人、普通に接しているのに、その中身に想像できないことが内包されているのが『話の意図がわからない』のにフラットな状態で話す人にあることは確かだ。私は人間の持つ異質さの中でも高級品が好きなのだ。それを安心して感じさせてくれるのが、演劇だ。

「でもおもしろい」これは自分を恐怖から守るための言葉でもあり、本気で思っている言葉だ。それをまた収集するためにも、出会いたくはないがちょっとおかしい人達がまた現れてくれるよう祈りながら、人が多い場所へ出歩いてみようと思う。きっとすぐ見つかる。

人間観察を通じて演劇を思考する藤村の眼差し

人間観察を通じて演劇を思考する藤村の眼差し

P.S:いました。ずっと揺れ続けてる人。たぶん脳内でノリノリの曲が流れてる。時折イェーイって言ってる。片手にアイス持って食べちゃってるから飛び散りまくってる。隣の席です。


【藤村 昇太郎 Shoutarou Fujimura】

1989年生まれ、三重県出身。愛知学院大学に入学後、演劇を始める。卒業後、劇団牛乳地獄に所属し、役者として活動。演劇外では、ダンス作品にも積極的に参加。もっと舞台芸術を学びたいという思いから、退団後に上京し、『ラフカット2017』『KAAT×Nibroll イマジネーション・レコード』に出演。