本田椋のプロセス

昨年参加した第一回の〈Ship〉から約8か月。

現在、第二回の〈Ship〉が航海中ということで、せっかくなので近況レポートを書いてみることにする。

第一回 滞在中のレポートはこちら↓

〈ship〉本田椋の言葉

上記のレポートから、キーとなる文章を抜き出してみる。

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演じるとは、「 ワタシ と ナニカ を 交換する 」ことに他ならない。

この「交換可能である」という事実がもたらすものは、

我々は「同じ」人間であり「平等」であるということ

「演劇とは、(真・偽によらない)立場表明である。」

「交換していることすら忘れるほど没入して、ひたすらに他者であろうとすること」

「ワタシ」を「立ち場」と言い換えてみる。

「異なる立場を同じ舞台上に共存させたい」

<立場>と<立場>のあいだに存在しうる関係性を探ることは、

出会いのカタチを探すこと

立ち<場> から 立ち<場> へと旅をしつづけることで、ありとあらゆるものと自身を交換(=交感)していくことが私にとっての俳優の仕事である。

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本田による「〈Ship〉Ⅰ」公開シェアのワンシーン。卵に囲まれた空間で咆吼が響きわたる。(撮影:寺田凜)

本田による「〈Ship〉Ⅰ」公開シェアのワンシーン。卵に囲まれた空間で咆吼が響きわたる。(撮影:寺田凜)

2017年12月のワタシにとって、演劇とは、上記のようなものだった。

現在のワタシにとって、演劇とは、もう少し微分的なものになっているかもしれない。

そのことについて極手短に書いてみたい。まずは、思い切って、

「演劇とは(自分自身も含む)世界への認識を変化させること」

こう言い切ってみる。

<立場の交換>ということを頻りに論じていたのだが、

交換される<ワタシ>そのものすら、流動性を持った<寄る辺なきモノ>かもしんない・・・

というふうに今は考えている。

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「〈Ship〉Ⅱ」メンバーとの交流のために仙台から駆けつけた本田

「〈Ship〉Ⅱ」メンバーとの交流のために仙台から駆けつけた本田

その前に、なぜこのような考え方の変化があったのか。

それは<立場の交換>というアイディアだけでは、解釈できないような作品へ出演したことが大きい。

まず一つ目は、所属劇団の再演作『走れタカシ』だ。

この作品は、走れメロスを下敷きにしつつも、タイトル通り、

劇団員であるタカシ(加藤隆)とメロスを重ね合わせて演じられる。

いわば、複数の立場が曖昧なまま同居し、多層化している状態だ。

このなかで、出演者の実話をもとにした<自分語り>といったシーンもあるのだが、

再演するにあたり、時間の経過を経ると、現在の自分とのズレは大きくなっていく。

最早、自分語りでありながら、完全に他者の立場として演じなくてはならなかった。

時間経過ということで、はっきりと自覚できたのだが、

<自分自身の立場>というものも、当然に流動的でファジーなモノなのだ。

二つ目は、創作舞踊『こころの伏流水』という作品だ。

仙台の老舗モダンバレエスタジオの記念公演に、俳優として参加させて頂いたのだが、

これが非常に演じるにあたり難題を含むものだった(笑)

わたしという現象

そこにだれもいなかった

わたしはだれ

そしてここは

なんとなく懐かしく安心できる場所

でもだれもいない

わたしはだれ

遠くの光がわたしに話しかけた

上記の詩を約10分間に渡り、繰り返し続けるというシーンがあった。

バレエダンサーが踊るなかで、ワイシャツ一枚の衣装で、

言葉を放ち続けなければならない。

瞬間瞬間に立場を選び取りながら、

空間・時間のなかで関係性の糸を手繰り寄せていかなければ、成立しないようなシーン。

しかしながらテクストそのものが、自分の立場への懐疑であり、その選択を打ち消すようなものだった。

いったいどのように演じれば良いのか。

結局、本番に至るまで、明確な答えはないまま、

まさに<寄る辺なきモノ>として、そこに立つしかなかった。

立場の交換不可能性、多層性、流動性、可謬性、誤謬性、・・・

さらには立場そのもののがない、という自体に直面したとき、

最早、<立場の交換>という言葉で演技・演劇を解釈するのは難しくなってしまった。

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滞在メンバーの言葉に耳を傾ける本田

滞在メンバーの言葉に耳を傾ける本田

そもそも自他未分の赤子の状態から<交換>という操作によって<ワタシ>は統一された自己として認識される。

いわば、「自分自身の鏡像」(外)と「自分自身の感覚」(内)の等価交換の操作と云えるだろう。

赤子にとって「痛い」「あたたかい」「尿意」「固い」「おいしい」などの種々の感覚、筋感覚(キネマステジア)、内臓感覚などはバラバラに存在する。

このバラバラの感覚が段階を経て、ひとつの自己に統一されていく。

(次いで、交換操作によって、母、父、家族、学校、社会・・・へと立場を広げていくことは、

いわば、<内>と<外>のレイヤーの多様化・多層化ともいえる。)

<ワタシ>とはワタシが<認識しているワタシ>に過ぎない。

後天的に構築され、今まさに変容し続けているワタシを<認識しているワタシ>が捉えているのだ。

「他者との交換こそが俳優の本質である」という考えから一歩進んで、(あるいは一歩後退して、)このワタシそのものも他者である(=寄る辺なきモノ=流動性のあるもの)と云いたい。

ワタシも他人も、<認識しているワタシ>にとっては等しく他者である。

そこには交換もクソもないわけである。

ただただ世界が広がっているだけ。あるいは世界に投げ出されているだけ。

交換するうえで主軸となる、座標となるワタシなどない。

(意識体験上、空間的な座標中心となってはいるけれども。)

ワタシも、他人も、この世界のすべても、・・・に対しての認識を変化させること。

これが演劇であり、演技なのではないだろうか。

ところで<ワタシ>が認識によってカタチ作られるものであることは、

身体図式の問題について、顕著である。

たとえば、幻肢症では交通事故などで失ったはずの腕や足が痛むといった症状が起こる。

物理的に手足を失っていても、それを<認識しているワタシ>にとっては依然として、手足は失われていないわけだ。

これは、幻肢症に対する手術を受け入れること等により、解消される。

幻肢に対する手術とは奇妙な表現だけれども、

つまりは、手足を<失ったという認識>が手足を<失わせる>のである。

 <失ったという認識>が<失わせる>

これは非常に演技・演劇の本質を得てはいないか。

第一回のレポートで述べている、坂東さんのワークショップにおいて、

「ストレッチしていない方の手も、ストレッチをイメージすることで、緩んで伸びた」

という結果が得られた。

これも、いわば認識によって他者(=ワタシの身体)が変化した一例だ。

この写真は「〈Ship〉Ⅰ」の記録のうち、印象的な一枚となった

この写真は「〈Ship〉Ⅰ」の記録のうち、印象的な一枚となった

例えば、目の前に リンゴ があるとする。 しかし、これは本当に リンゴ なのだろうか。

リンゴのカタチをしたシェイカー(楽器)なのかもしれないし、 食品サンプルなのかもしれないし、

新しく開発されたリンゴのような見た目のミカンなのかもしれないし、

リンゴ型の宇宙船なのかもしれないし、

知恵を授けるエデンのリンゴなのかもしれない。

もっといえば、

ワタシが見ることでリンゴはそこに存在するのかもしれない。

ワタシに見えている側の反対側はなにもないかもしれない。(張りぼて かもしれない。)

ワタシが目を背けたら消えるかもしれない。

リンゴなんか本当はなくて、水槽のなかに培養された私の脳に送られた電気信号によって見せられている夢かもしれない。(映画のマトリックス的世界観。)

ワタシという自己像が感覚を統合することによってもたらされたように、

リンゴも、「赤い」だとか「丸い」「ツヤがある」「甘い香り」などの感覚を統合した結果、「リンゴである」と認識しているだけだ。

いわば、私もリンゴも<シュレディンガーのワタシ>であり、

<シュレディンガーのリンゴ>なのではなかろうか。(注:比喩的な意味として。)

認識(観測)されるまでは、その在り様を決めることはできない。

そして、そこには間違いも正解もないのだと思う。

ただ<認識された世界>と<認識しているワタシ>があるだけだ。

また、現在の科学において、

<意識体験>がなぜ起こるのかという問題に対して、未だ完璧な回答は得られていない。

なぜ「赤い」という特有の感覚が、

ある周波数の光を感覚器官が電気信号として脳に伝えると起こるのだろうか。

魂か、霊魂か、そういったも未知の現象があるのかもしれない・・・そう考えたくもなってくる。

急に、オカルトじみたなという時は、未知の「物理」現象Xがあるのかもしれないと、読み替えてほしい。

ともかく、そういった意識体験によって世界を認識するワタシがある。

(そして、その意識体験の空間的座標となる身体がある。)

これは、本当に素晴らしいことだと思うのだ。

 認識によって<世界と私>は無限に変わりうる。

では、演劇の働きとはなにか。

<世界と私>は無限に変わりうるとはいえ、それは、ある意識体験を観測するワタシにおいてのみの出来事だ。

これを、共同体の体験として同時多発・多層的に立ち上げるのが演劇ではないか。

<ワタシ>と<アナタ>の二人で、

<世界と私>(A)と<世界と私>(B)を変容させる。

この共振作用こそが演劇なのではないか。

古い言葉には「二人の人が心から祈れば、それは叶う」というものがある。

赤子が自身の鏡像から自己を創りだしたように、

我々も、共演者の間に、観客との間に、多様な鏡像を創り出す。

合わせ鏡のようにして、千変万化する無限の世界を<舞台>と呼んでもよいだろう。

(そして、呼ばなくてもよいだろう。)

演劇は世界を変容させる。

それは、<世界>と<世界>との出会いであり、破壊であり、再生であるだろう。

どのような可能性をも含んだいっさいのものが<舞台>のうえの何もない空間に広がっている。

この石は石である。動物でもあり、神でもあり、仏陀でもある。私がこれをたっとび愛するのは、これがいつかあれやこれやになりうるだろうからではなく、ずっと前からそして常にいっさいであるからだ。(ヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』)

さて、何もない舞台のうえに リンゴ をおいてみる。

このリンゴはリンゴである。○○でもあり××でもあり、△△でもある。

これこそが、演技の本質ではないだろうか。

俳優として<世界と自分>とを憎まず、軽蔑せず、愛と讃嘆と畏敬を持ってながめたい。


【本田 椋 Ryo Honda】 19100年生まれ、新潟県出身。東北大学理学部物理学科卒。所属劇団は劇団短距離男道ミサイル。2015年より同劇団の代表を務める。その他に、仙台シアターラボ学芸事業部およびシャマン術国際協会に所属。現在、短距離男道ミサイルの作品を中心に、年間100ステージ以上の舞台に精力的に出演。日本古来の伝統療法、心身術に基づくワークショップやボディコンディショニングなど多岐にわたる活動を展開中。