藤村昇太郎・担当回

一人称を「ワタシ」とする彼は、自分は演劇の何を面白がっているかを訥々と喋り出しました。

「いつ何が起こるかわからない状態の人」

今日までの藤村さんの〈演劇〉は、このあたりに集約されるとのこと。

実生活上で幾つもの恐怖体験に遭遇していることを例にあげながら、みんなで会話の再構築をすることになりました。察しようとしても相手の出方がわからないという状態、自分から何か言おうとしても何を言えばいいのかわからない状況などなど、実際に参加者に体験させていきます。

会話をなくした状態でのコミュニケーション、母音だけでやってみるコミュニケーション、そこから会話の発端を探りつつ、主導権を握ろうとすると逆に混乱し始めることなど。そうしたことの中に、藤村さん自身が「演劇でみたい部分」があるそうです。身体全面で伝えようとすると、だんだんわかる感じがしてくる。会話は会話でしかないが幾らでも詰め込める要素がある。伝達するにはルールが必要。

実際にペアでゲーム方式に取り組んでみたところ、次のような声が上がりました。

「喋ってもいいのに色々なことを考えてしまう(負荷がある会話)。」

「ペアでの会話を条件付きで行う不完全な言葉から普通のしゃべり言葉へと変遷していく中で、自分の集中する先が変わっていくことに気づく」

「普通の言葉を使っているときほど身体が上手くコントロールできない感覚が不思議な違和感。」

目の前の人、と交わされる言葉と、起きている出来事への疑い。 無自覚に用いられる「ことば」とディスコミュニケーション。 目の前の人が「何をするのかわからない」という、状況で立ち上がること。次の瞬間殺されるかもしれない恐怖について。

現時点で藤村さんが演劇だと思っているもの、それは「人の怖さがどんどん出てくるもの」だということです。ひとつずつ要素と負荷を加えていくことで、身体操作と意識の置き所が揺さぶられて、参加者たちは普段は気づけない感覚の所在を感じ取ることになります。ただ、ここで注意深く聞き取らなければならないのは、演技術上のヒキダシをひとつ加えることではなく、こういう感覚の変化そのものをみたり味わったりすることに〈演劇〉が在ると考えている俳優が、いま目の前にいること、この点にあります。

「それも使えるネ」「そういうのもありだよネ」ではなく、「これじゃないのか」と提出されることで出てくる〈突きつけ感〉は、メンバーひとりひとりのなかで既に理解が済んでいた要素を、ふたたび驚異を含むものとして向き合わせます。また、アンチテアトル風の不条理な会話をお決まりのコミュニケーションのくい違いとして求めるのではなく、実体験で遭遇した恐怖の主を自ら演じ直すことで、彼自身は絶対にそういうことはしたくないという決意を確認しているそうです。とすると、これはある種のセラピーなのか?そう思いつつも、実際の彼が求めるパフォーマンスには明確な技術があり、まぎれもなく遊戯性を伴った〈演劇〉として踏みとどまっている。さて、このバランスをどうみるか?

以下は参加した小濱さんによる雑感。

「根本にある、恐怖、そしてそれに対する興味。藤村さんの「演劇」は盗み見るような感覚を受ける。

人と交わされる言葉と非言語のコミュニケーション、目の前で起きている出来事と、感じ取るもののズレの感覚。 無自覚に用いられる「ことば」や、まるで認識している/保持している世界が違うかのような違和感。次の瞬間殺されるかもしれない、目の前の人が「何をするのかわからない」という状況を掘り下げて行く。

簡素な言葉や、オノマトペに近い言語で話していた際にはあって、言語に移った瞬間に失われる感覚と、失われた先にあるズレを見つめて行く。」


【藤村 昇太郎 Shoutarou Fujimura】

1989年生まれ、三重県出身。愛知学院大学で演劇を始める。劇団牛乳地獄で役者として活動し、他団体へのダンス作品にも積極的に参加。もっと幅広く舞台芸術を学びたいという思いから、退団し上京後『ラフカット2017』『KAAT×Nibroll イマジネーション・レコード』『体現帝国 白雪姫』『第七劇場 ワーニャ伯父さん』に出演。