小濱昭博・公開シェア

まえがき

滞在6日目にクローズドで行われた中間シェアと、最終日となる7日目に、観客を招くかたちで行われた公開シェアの記録チーム(飛田、宮﨑)によるレポートです。


宮﨑莉々香のレポート

◯中間シェア

鏡のまえの小濱

鏡のまえの小濱

担当回での小濱は、自身の身体・精神を限界の状態に置いた中で、うまく言葉にできるかは定かでないことを前提に「私にとっての演劇とはなにか」を語った。言葉を用いて「語る」行為が中心にあったと言える。中間シェアでは、何をしたいかを話す前置きはあったものの、逆に、言葉を使わないという方向に向かった。鏡の前に立ちつくし、涙をながす、二つのシンプルな動作を行った。

◯公開シェア

物干し竿が後ろの方にある二階スタジオ。部屋の明かりが消え、(1)私について、(2)演劇について、の二つの話をすると言い、小濱の公開シェアがはじまった。

(1)私について
鏡を背後に、観客の方を向いて立つかたちで、暗い中だから話せることがあると言い、自身のこれまでについて語りはじめた。兄と寝ていて、兄の物語を聞くのが好きだった話、幼稚園の時代にいたアメリカ、中学校の時のいじめ・いじめてしまった経験、女の子に冷たくしてしまったこと。いつも怖くなってほどほどで手を打つ自分が、演劇をきっかけに届かないところや、見えないものが見えるようになった。自身の後悔や懺悔がわかりあえない可能性を知りながら、伝えるということを小濱は行った。これまでを伝えることができる、自分が感覚的に言えると思える、場をつくることを小濱はまず行った。

(2)演劇について
小濱は演劇を考えると同時に、現実を考えているのかもしれない。演劇について、で語られた話を以下要約する。

“震災の時、演劇でできることはないと思って、炊き出しにも行かなかった。でも、二ヶ月後に演劇でなにかやろうという動きがはじまった。”

小濱は語りを行いながら、携帯電話の明かりに向かって歩き、その明かりを持ち帰ろうとする。できなくて、語りは涙声になり、行為も中断される。また歩き出し、明かりを手元に持ち帰る。なんとか、語ることができる。一つ目の語りが終わると「携帯の明かりをください」と観客にお願いをし、いくつかの明かりが観客から差し出され、そこに向かって小濱はゆっくり語りながら歩き出す。

“劇団のツアーで出会ったおじいちゃん。娘は子どもができない体で、はじめてできた彼氏にそのことを告げることに勇気が必要だった。今は彼氏と結婚して、子どもが三人もいるんだぜ、演劇、がんばれよ、と言われる。”

自身が出会った他者の話をするためには、他者を引き受けるためにはどうすればいいか。話すための身体を自身の感情や、精神を高ぶらせ、自身でない状態に近づかせながら、手に入れようとする。自身の身体をできるかぎり、他者に近づかせることで、他者の語りを行うことが可能となった。しかしながら、自分の今の行為や演劇をしていること自体にも小濱は懐疑的になる。「ほんとうに、これでいいんだろうかって思う」と途中、吐露する。どうしようもできない海外での空爆、仙台の演劇環境、それでも光を求めて、立ち止まりながら歩いていく。小濱の足元には持ち帰った観客の携帯電話の光が集まり、「たくさんの光が集まると、遠くがいっぱい見えるようになる」と光を持ち上げながら、締めくくった。

(3)「今、この瞬間を」

演劇についての語りを終えた後、小濱は席の先頭にいた観客に、「はじめまして」と話し掛けた。自分にはどうにもない現実、そのような中で演劇をしている自分。今、たった今、目の前の人と、演劇を通して知り合うということの可能性について、最後に小濱は我々に掲示したのかもしれない。

言葉を尽くすことで、楽になってしまう経験、どうすれば、わからない状態や困った中でその場しのぎの答えを出さないでいられるか、ということを小濱は終始思考し、体に制限をかけることによって、実践していたように思う。現実の強さを噛み締めながら、演劇をすることについての問いが投げかけられたように感じた。


飛田ニケのレポート

○中間シェア

「ただ立つ」を真剣にみる俳優たち

「ただ立つ」を真剣にみる俳優たち

「言葉にして逃げてるから、ただ立っているのをやってみたい」 これは、滞在2日目の自身の担当回を踏まえて、中間シェアの冒頭で小濱が言った言葉だ。おそらく、彼がこの滞在で問いとして常に抱えていたものは一貫していて、それが担当回から中間シェア、公開シェアへと(じつはかなり論理的に)展開されていった。担当回で、演劇について、小濱の問題意識から延々と語られた苦悶の言葉を、中間シェアにおいては、一言も発さずにただ、そこに立つことで、「逃げずに」俳優として在る。それが目指されていたといっていいだろう。わたしたちは、鏡のまえに立って微動だにしない小濱を、見続ける。ほぼまばたきもせず、あるいは目をつむり、よく見ると涙を流しているときもあったが、そんな時間を20分ほど、ときおり鏡に映る自分たち自身を眺めつつ過ごした。たしかに、小濱は、真摯に自分の問いに応答していたと言える。しゃべりつづけることで、自意識をさらしつづけることから、黙って立ち尽くすことへの形式的な転換自体は、観客と俳優のあいだにある距離への配慮として正しいだろう。しかし、筆者がこの場にのぞんでぼんやりと思ったのは「ただ立つ」とは可能だろうか、ということだ。事実、小濱は「ただ立つ」以上にさまざまなことをしていたのは、書いたとおりだ。「ただ立つ」をより切り詰めなくては、担当回でのおしゃべりとどう違うだろう。そして、より切り詰めるとは、どのように可能だろう。

○公開シェア

中間シェアで、私に話すべきことはなにもない、と言わんばかりに黙ることを選んだ小濱が、公開シェアで、もういちど語りだすことを選んだのは、論理的にわかりやすいかもしれない。もちろん、その語りは、話さなければならないといった義務にしたがうように、おしゃべりしつづける担当回での時間とは、かなり異なる。それは「ただ立つ」ことを実直におこなった中間シェアを踏まえて、語るための身体の強度を持たせたかたちで、語られたといえる。

スタジオにある鏡のまえを囲むように設置された椅子と、椅子のあいだにまばらに置かれたハンガーラック。観客たちが席に着くと、小濱から説明があり、おのおののスマートフォンで、パフォーマンスに加担して欲しいとのこと(上演の途中で、おのおのの持っているスマートフォンのライトを点灯した状態で、足元に置くことを、任意にしても良いということが告げられる)。説明の後、スタジオ内の蛍光灯が消され、カーテン越しに外からの明かりがかすかに入ってくる程度の暗闇となった。ここから小濱のパフォーマンスがはじまる。全体は、自分が経験したことを話すという形式で、一貫しているが、自分の人生の根幹にあるトラウマのようなことを話したのち、行為を伴いながら、演劇について話す、2つの部分にわかれている。

まず、幼少期の思い出を話し始める。暗闇から連想されるエピソード──兄と暗闇で話した親密な思い出──から、周囲と違ってしまうこと、いじめについてなど、かれの人生の根幹にあるような出来事について。その流れの中で、どうして演劇を始めたのかという話をしはじめる。それから、持っているスマホのライトを床に置くと、そこにむかってゆっくりと歩行し、足元にあるライトを拾い上げる。観客にライトを置くことをうながし、この行為を繰り返す。小濱は、演劇の活動のなかで経験した、さまざまな記憶を思い出しながら、語っていく。それは、彼が仙台出身であること、東日本大震災を経験したあとの東北で、演劇活動を行うことにまつわる物語であり、ある種の決定的な出来事にまつわる、感情をともなう語り直しである。だれかが置いた光を拾い上げる行為の繰り返しのなかで、物語の記憶と感情のなまなましい出来事が、語りを通じて伝えられていく。そこから、小濱が、いままでの試行錯誤から切り詰めたものが見えてくる。それは、演劇、あるいは俳優の責任や目的を、問い直すことであろう。(悲惨な?)現実にたいして、当事者を差し置いて俳優がなにを語れるのか。その問いを切り詰めた先で、この時点での小濱の応答は、当事者の声を代弁するように、出来事の切実さを報告するような、そんな俳優としてのありかただろう。小濱のシェアでは、そのような態度表明が、なまなましい一回的な出来事として、行われた。


【小濱 昭博 Akihiro Kohama】

1983年宮城県仙台市生まれ。俳優/演出家。宮城教育大学在学中から演劇をはじめ、震災後に立ち上がった「劇団 短距離男道ミサイル」に2012年に所属。以降同劇団の看板俳優として活躍。自身が演出をするユニット「チェルノゼム」での創作も精力的に行う。 仙台を拠点にしながらも、東京、京都、兵庫をはじめ、フランス、チュニジア、香港など活躍の場は国内にとどまらない。近年俳優としての経験を活かし、県内外でPTAや学生へ向けて、年間20本以上のコミュニーケーションのWSを行っている。