小濱昭博・担当回

水とコーヒー、エナジードリンクとチョコレートを脇に置くと、「いつものルーティンを、壊すために、自分を追い込んでみたい」と言って、小濱は、「自分にとっての演劇」について語り始めた。語る内容は、彼が、その生活のなかで経験したであろうさまざまな事柄とそれに纏わる雑感で、矢継ぎ早に話題は入れ替わっていくが、ここで中心となっているのは「演劇とは生き方。想像力ということかな」という言葉通りの、演劇の、あるいは自分と世界とを結ぶ想像力についての困難である。

小濱の膝とエヴィアンとエナジードリンクとチョコ

小濱の膝とエヴィアンとエナジードリンクとチョコ

かれにとって、演劇とはコミュニケーションの手段であり、それによって人と人との間を「通行可能」とすることができる想像力のかたちである。これは俳優としてのかれにも重要な指針であり、身体に誰かを再現する演技という行為において──たとえば声の高さなど──より具体的にだれかの性質にアクセスし、それをトレースしていく技術にもあらわれている。なぜなら、演技には、その再現の行為によって、他者にアクセスし、想像力によって、自己と他者の間を「通行可能」とすることができる可能性があるからだ。

どんづまって、ちょっと黙る

どんづまって、ちょっと黙る

では俳優は、どんな他者を演技すればいいのだろう? かれの発話にある、あせりのような感情は、2時間ぶっ通しで話し続けるという自らに課した制約からのみくるものではないだろう。小濱が、ホロコーストや、東日本大震災、ルワンダの虐殺など、世界史的な事件を挙げながら、その当事者の語りのまえで、為すすべもなく黙るしかない自己への意識は、わたしたちの前では、あせりや、苦悩を伴って、それでも話さねばならないという義務(俳優の?)に対する感情としてあらわされていた。しかし、この義務感というか責任感は、なんなんだろうか? 小濱が執拗に「見ている人に、生活に役立ててもらいたい」と繰り返す言葉と、この責任感は関係があるだろう。そうでもなければ、演劇や俳優は、世界に対して必要のないものであるかもしれない。そういった不安と、この責任は結びついている。そして常に、「どんな他者を演技できるのか?(できないのではないか?)」という問いが、小濱をさいなみ続ける。なぜなら、当事者が語る言葉以上に、演技者が切実に言葉を語ることはできないという、真摯な確信が、彼にはあるからだろう。

天井のコンクリートの話題で指差す小濱

天井のコンクリートの話題で指差す小濱

上述したような記述のなかで、小濱が、当事者ではない俳優だからこそ、だれかに伝えるために、適切なパフォーマンスをする必要があり、そのために俳優は技術を持つべきだし、それによって観客の潜在的な欲望にかなう時空間を芸術としてつくりあげなければならない。そしてそれこそが彼にとっての演劇である、ということはわかるだろう。もちろん、かれの持った時間でも、それは実践されようとしていた。しかし、それはけっして成功しないものとして上演されている。なぜなら、俳優は、他者の言葉との関係性のなかで、はじめて語ることができる存在であるために、自分の言葉で語るということは──強烈なエゴでもない限り──不可能であるからだ。観客への配慮からくる自己言及によって、どんづまっていきながら、それにたいしてあがき、失敗し続けるような試みにおいて、その問題意識の痛切さが、文字通り「痛さ」として発露するような時間をすごして、わたしたちが発見する問いは、俳優の不可能性からサバイバルし、演劇を続ける(あるいは廃業するかの二択しかないとして)ための方途を考えさせてくれた。(飛田)

考えながら話して考えながら話して

考えながら話して考えながら話して


【小濱 昭博 Akihiro Kohama】

1983年宮城県仙台市生まれ。俳優/演出家。宮城教育大学在学中から演劇をはじめ、震災後に立ち上がった「劇団 短距離男道ミサイル」に2012年に所属。以降同劇団の看板俳優として活躍。自身が演出をするユニット「チェルノゼム」での創作も精力的に行う。 仙台を拠点にしながらも、東京、京都、兵庫をはじめ、フランス、チュニジア、香港など活躍の場は国内にとどまらない。近年俳優としての経験を活かし、県内外でPTAや学生へ向けて、年間20本以上のコミュニーケーションのWSを行っている。