まえがき

滞在6日目にクローズドで行われた中間シェアと、最終日となる7日目に、観客を招くかたちで行われた公開シェアの記録チーム(飛田、宮﨑)によるレポートです。


宮﨑莉々香のレポート

◯中間シェア

地図の乗ったパンフレットを読む鶴坂

地図の乗ったパンフレットを読む鶴坂

「自分が無意識に排除している言語を受け入れるとはどういうことか」を問いとして、鶴坂の中間シェアはあった。担当回では、自分についての要素を紙に書き出していくことで自身の見つめ直しを図ったが、それに反して、中間シェアではインプットの行為が見られた。「読む」という行為にピントを絞り、言葉を排除せず受け入れてみようという試み。自分の思い入れのある本、読んだことのない文章、地図、足元に数冊の読みものを置き、パラパラめくり読む。読むという、他人の言葉を声にする行為の中に、すらすら読める時、時折はつまずく様子も見られた。鹿島からは「リーディングに見えてしまうと残念になる」とコメントがあったが、これは、読めない対象に対してはどうなのか、という問いだったのかもしれない。

◯公開シェア

家電をフル活用する鶴坂

家電をフル活用する鶴坂

公開シェアは三階共有スペースで行われ、普段皆で食事をしていた青いテーブルを囲むようにして観客はいる。鶴坂が行った行為を詳細に書き出すことからはじめたい。「」は鶴坂が言った言葉。その他の言葉は行動を示す。物を置く机は中央の青いテーブル一つである。

以下は、行為を分類してみたものである。

(1)声に出す行為について
第一に、声に出された(出されなかった)、書かれている文字の種類について。本として書かれたものから、誰かの置き手紙、地図、商品名、読めない外国語まで。また、書かれていない「もの」としての名前も鶴坂は声に出した。コップが四つあれば、「コップ、コップ、コップ、コップ」と。一つに、書かれてある文字、二つ目に、認識しているものの名前を鶴坂は声にした。

第二に、声に出す行為について。声にする場合、声にできない場合、声にしない場合の三つに大まかに分類することができる。声にする場合には、聞こえないようにボソボソと独り言を言うことも含む。

(2)行動について

ものの名前を呼び、それを掲示する時、行動が声に出す言葉をはみ出す時(例えば、「しおあめ」と言って、食べる行為がはみだす)、何もいわないでものを机に置くなどの、行動のみを行う時、の三種類が見られた。

鶴坂ははじめに窓を開けた。外からの音や景色を排除しない部屋(環境)をつくり、その中で、普段はわざわざ口にしないような、ものの名前を声に出し、また声に出すことができない場合もあり、環境や、意味を受け入れることを行おうとした。水の音が流れ続けても、冷蔵庫が開けっ放しでも、その行為をやめることはなかった。「受け入れる」ことが可視化された豊かな時間を鶴坂は私にとっての演劇として、掲示したのだった。


飛田ニケのレポート

○中間シェア

漫画を読み上げる鶴坂

漫画を読み上げる鶴坂

わたしたちの見やすい位置に椅子があり、その足元に数冊の本と、なにかのパンフレットが置かれている。鶴坂は、その椅子に座ると、足元にある本から一冊手に取り、パラパラとページを繰って、てきとうな箇所を声に出して、読み始めた。たまにつっかえたり、はにかみながら読んでいき、ふいに手放し、べつの本を読み始める。本の種類は、小説から、漫画、観光パンフレット、選書紹介で彼女が持ってきたドラッカーの著書まで、雑多にある。鶴坂が、中間シェアでおこなったのは、本当にこれだけのことだった。しかし、これが、自分自身の演劇を表明するために彼女が選んだ最善の方法だったとすれば、わたしたちは、ここからなにを読み取ることができるだろう?

○公開シェア

お茶のパックを見る鶴坂

お茶のパックを見る鶴坂

公開シェアで、鶴坂が選んだ場所は、劇場3階の宿泊所にある共有スペース。7日間の滞在、わたしたちが生活した場所で、そこにすでにあるモノを最大限利用するかたちで、上演は行われた。「わたしにとっての演劇」とはなにか、ということを参加俳優たちそれぞれが考えてきたなかで、鶴坂にとっては、それがもっとも抽象的なレベルであらわされていたと考えられる。公開シェアは、まぎれもなく彼女の行為によってつむがれた時空間であるのだが、それが、日常のなかの実践であるかのように上演されていた(それゆえ、なにも特殊なことは起きていないように感じられる)。つまり、これは彼女のもっとも私的な領域で、演劇だとみなされうることが、「読む」、あるいは「受け入れる」というキーワードで紐解かれる時間だったといえるだろう。

本棚のなかの漫画や美術書、外国語で書かれた観光パンフレット、キッチンのフライパン、ガスコンロ、鍋の中の味噌汁、コップ、冷蔵庫の食材、水道、利用上の注意書き、観客たち、窓の外。鶴坂は、見えたもの、気になるものに手当たり次第、働きかけていく。

行われたことを、たとえば、このように読むことができる。鶴坂が選んだ対象──本や、ラベル、注意書きの文字、あるいは、そのモノにつけられた名前──が読まれていき、それが共有スペース中央の長机に集められていく。無作為に選ばれ集められたモノが、そこで読まれた名前や文字を超えて、そこにあるということで立体的になる。意味や用途を超えて、そこに在ることが、強く感じられる。それは、もしかしたらここに在るという位相にある、観客も俳優である鶴坂も変わらないかもしれない。 つぎに、集めるや読むという行為の主体である鶴坂に目を向ける。彼女は、ありふれたモノの名前や、文字の断片を読み、また、じぶんが感じていることも言葉にし直していく。周囲を取り巻くように立っている観客にみられていることを口にする。共有スペースにあるキッチンに向かうと、冷蔵庫をあけて中身の食材を見て、その名前を読む。蛇口をひねり、水を流す。味噌汁の入った鍋に火をつけて温め直す。

「見られている」

「水 流れる 水が流れる」

「なべ 火 火をつける お味噌汁のにおい お腹がすいた つけっぱなしは危ない」

これらの言葉は、実際に鶴坂が行ったことや、ある状況と素直に対応している。あたかも、彼女自身のやりたいことやその感覚が、声に出して読まれているようだ。彼女は、さまざまなモノやコトを読む主体でありながら、読まれるモノたちは、自分自身や観客も含め、すべて等価に扱われている。

公開シェア終了後のトークで彼女は、自分のパフォーマンスについて「受け入れることが必要」で、それを行ったと語っている。そして同時に、「受け入れるとは境界線が曖昧になる、境界を曖昧にして受け入れる」ことだとも言っている。つまり、彼女は、名前で呼んだり、文字を読んだり、自分との関係を口にしたり、読み込んでいく行いを通じて、自分のいる世界を受け入れていく。それをパフォーマンスとしたのだ。わたしたちは、彼女が、世界を読み込んで、受け入れていくさまをみる。それは、世界と鶴坂とのあいだにある境界があいまいになっていく時空間である。このようにして、観客さえ受け入れられていく空間で、わたしたちは、じぶんの五感が鋭くなっていくのを感じる。すべてが(自分さえも)フラットな場所から、おのおの選んで、感じること。鶴坂にとっての演劇が、わたしたちそれぞれの生活をハックするような、時間だったと言える。

【鶴坂 奈央 Nao Tsurusaka】

1989年生まれ、奈良県出身。2011年、文学座附属演劇研究所卒業。2014年、京都造形芸術大学舞台芸術学科卒業。卒業後は、演劇との距離感を模索すべく3年程アルバイト中心の生活を送った。現在は関西にてフリーランスで活動中。出演作品として『イット・ファクター 残酷なる政治劇』(2016年/山本善之作・演出)、『背馳の黄昏』(2018年/同作・演出)、『繻子の靴』(2016年、2018年/渡邊守章演出)などがある。近年は、劇場以外の施設を利用した朗読の上演に、意欲的に参加している。