依田玲奈・担当回

日常の中にも、演劇的(「演劇だなあ」)ということはたくさんあって、思い出せる。そのことと、「(演)劇をやってる」人として見られることとのあいだに齟齬が生まれる。依田の実感には、この齟齬、つまり、日常と演劇を過度に切り分ける(「劇をやってる」)ことにたいする違和感がある。

事実、「演劇をやってる」にしろ、それは(職業のような)社会的なものとしては生活から切り離せない。むしろ、生活のほうを切り分けると、「演劇的」が見つかる。これが依田の実感の正体で、ここ(=「私にとっての」)から、だれしもに共有しうる演劇を確かめることで、演技について考える。「演技は一生やめられない」ので、「全部演技だなあ」ということ(だろう)。

ぐぐど(キサラ)、すぴな(小林)、タガイチガイ(牧)、てのひら(依田)

ぐぐど(キサラ)、すぴな(小林)、タガイチガイ(牧)、てのひら(依田)

ワークとして、所与の(といえる)条件から、他者への想像力を引き出すようにして、様々なことが行われた。「その人から受ける印象でその人の名前をみんなで考え、名付ける」「今いる場所を歩き、自分の前世だったかもしれないものを見つける」「この場所に来たときの「瞬間」を話す」など(ここでなにも滞らずに、「名付け」られ、「前世」を見つけ、その「思い出を語る」ことができるのは、なにが了解されているからなのか、ということは参加者全員が思い起こすべきだろう)。

電気メーターが前世のぐぐど(キサラ)と、壁の穴が前世のタガイチガイ(牧)

電気メーターが前世のぐぐど(キサラ)と、壁の穴が前世のタガイチガイ(牧)

依田のいうように「私とあなたが今この瞬間に出会う」のが、演劇(の必然性)であるなら、出会いの「瞬間」の演劇性が問題となる。出会いの「瞬間」において、わたしたちは何者かにならざるをえない。「やりたくなくても(役を)背負う」。そこには、ひとが生活から切り離されてしまう裂け目がある。背負った「瞬間」のおもみを、「物語(る行為)」によって軽くすること。それによって、「演劇をやめる」のではなく「演技をやめる」可能性をひらく。すくなくとも、「演技をやめる」余地を想起できる。

京急の黄金町駅に降り立った「瞬間」を語る依田

京急の黄金町駅に降り立った「瞬間」を語る依田

他者との「出会い」のまえで、演技は起こり、生活と「瞬間」は分断される。その分断を埋めるように物語ること。ここから依田は、(社会性と政治性に引き裂かれる)俳優の位相を結ぶ行為としての「物語(る行為)」の意義を説く。(たとえば、物語によっても)埋めていることを無視せずに動けるのか、にかならず留保は必要だが、最低限の問いを生む可能性には開かれた時間だと思った。

深呼吸して、2時間を共にした名前にお別れをするひとたち

深呼吸して、2時間を共にした名前にお別れをするひとたち

依田によるふりかえりメモ

依田によるふりかえりメモ

記録チーム 飛田ニケ


【依田 玲奈 Reina Yoda】

1993年生まれ、山梨県出身。2015年、明治大学文学部文学科演劇学専攻卒業。在学中では英語部に所属しながら、ジャンルを問わず、様々な舞台に出演。卒業後は俳優として舞台を中心に活動。近年は出演だけでなく、ワークショップ講師や、自身の企画にてひとりリーディングや一人芝居の構成、演出、出演にも臨む。2018年より、個人企画「just a(ジャスタ)」を始動。「わたしとあなた」「身体ひとつで劇場へ」をモットーに、瞬間と、瞬間で出逢うことを目指していく。