小林玉季の言葉

黄金町駅から川沿いを通って約7分。若葉町ウォーフで1週間を過ごして1ヶ月が経った。

あの時に起きたことは幻だったかのように、私のこの1ヶ月は目まぐるしく過ぎた。

しかし、この目まぐるしく回る1ヶ月の中にも、あの時の気づきが、あの時の感覚が、体験が、過去が、ふと今に帰ってくる瞬間というのが確かにあった。そして、あの時のことがあったから、目の前に起きていることがより明確に理解できるという瞬間が確かにあった。

私はお寺に住んでいたことが3ヶ月ばかりある。〈Ship〉の後の余韻は、お寺帰りに感じた余韻に少しだけ似ている気がした。お寺は、離れられない日常のノイズを一度外した日常の中、限られた場所、限られた時間、(少数の訪ねてきたり出入りする人を除いては)限られた人間の中、そして豊かな環境の中、起きていることに根本から向き合うことの出来る空間だった。

出会う感情はとてもピュアなものたちばかりだった。

しかし、また日常に戻った時、まるでその時間が存在しなかったかのように、お寺では少しでも体得していたような気がした習慣や考えがまた前の習慣に徐々に戻っていってしまったのだった。 その時私は、実はこの体験の本当の価値というのは、帰った後にあるのではないだろうか。と思った。

その時間に得たものは、道具なのかもしれない。仕組みなのかもしれない。アイディアなのかもしれない。人との繋がりなのかもしれない。哲学なのかもしれない。美学なのかもしれない。何にせよ、それを持って、じゃあそして、何をしようか?どう生きていこうか?という考えた(今も考えている)過程が、実は本当の私の血肉になっているように思う。

今回の〈Ship〉で、沢山の価値観に触れた。人に出会った。これを以って、どう人生を歩むのか。

「なるほど。この人はこういう考えなのか。へ~。」 「や~あの時間は良い時間だったなぁ~。」 「うむ。沢山の気づきがあり、濃厚な時間であった。」

などという完結型の理解だけではなく、

「なぜこの人はこの考えに至ったんだろう?」 「あの時間が良い時間になった要因となったのは、何だったんだろう?」 「この気づきは、自分の何に当てはめて実行出来るだろう?」

と、継続可能な変換が私が次のステップを踏むのに背中を押した。

それを考えると、その変換が容易にできたのが推薦図書紹介会だったように思う。(プログラム中、自分の好きな本を3冊、自己紹介がわりに紹介するという回があった。詳細は→選書紹介・利き服

あの時、出身校や今までやってきたことを聞くよりずっと、その人間としてのフェチズムや哲学を知れたように感じた。その上で、本、という仲介者を介することによって、自分なりのそれを取り入れることが可能であった。(全員分の読みたかったなぁ…)

〈Ship〉の中身は私にとってなんだったであろうか。

中身にいる時の私には、自分に起きていることや考えを言葉に翻訳する、というのが難題として降りかかっていた。(プログラム全体を通して、感想や出来事を文字に起こしノートに書き留めるというのが一貫した課題であった。)

言葉で上手く説明できればなぁ、と思うのだが、心が動いて、頭が動いて、文字になるまでの過程において何か別の意味に変換されてしまうような気がして、どうしても上手く伝えられる気がしなかった。

1つ何かを言いたいときにも、どんどん他のイメージが膨らんでしまって、道筋から外れていってしまう。今も現にそうだ。 これが自分の頭で起きていることが真実なことには違いないのだけど、相手に伝わるか、というと、そうでないことがたくさんあるように思う。

頭は常に色々な考えや情報、感情でいっぱいだ。

「この行動はこの理由で選択した。」という具体的な要因があるときも他の要素を内包しているから、心で起きているのと同時に言葉に変換するなんて、そりゃあ伝えたい分の全部を伝えられなくたって無理ないのかもしれない。

散らかった頭の部屋の中の色々を、まず分かりやすく仕切ってみると、分類シールのついたバスケットにすんなり収まるものもあれば、部屋をふらふら彷徨い続けるものもあった。一度棚にすんなり収まったものたちすらも、時の流れと共に、自分のいるべき場所はここなのかと疑うものもあった。

あの1週間、自分の頭と、心と、そして自分の吐き出す言葉たちと向き合い、大切なのは、全てに決まった場所を設けることではないではないのではないだろうか、という考えに至った。

どれだけ、私の頭の中のあいつらやそいつらの場所の移動や、まだ行き場を見つけて居ないものの存在をゆるりと受け入れてあげられるか。

君はここ!と決めてしまうのではなく、移動を、変化を、どれだけ寛容に受け入れてあげられるか。

時には新しい場を創る。

時には、場を破壊することも許す。

それはきっと、創作の場でも同じことのはずだ。

たまに、分厚い鍵の掛かった箱がいつの間にか出来上がっていることがある。

私が気づかないように、壁に埋まるようにしていることもあるから、通常運転の日常では気にとめることもあまりなく、大きな問題をきたすこともなく、ある程度平和に過ごせる。

ただ、前へ進もうとした時に、その箱の中身が必要になってくることがしばしある。

放置しておくと放置しておいた分だけ鍵は錆つき、開けるのが困難になる。時に痛みを伴う。時に、痛みと形容するだけでは不十分なほどの痛みを伴う。

大切なのは、その箱が出来上がっていく過程にちゃんと気づいてあげることなのだと思う。完成する前に気づいたら、その箱の中に閉じこもってしまう前に話しかけることができる。会話ができる。そうして、一緒に居場所を探してあげられる。

そう考えると私にとって〈Ship〉は、私の部屋に今何があるのかを把握する時間でもあったように思う。整理しようというわけでもなく、何か模様替えをしようというわけでもなく、場所を設定しようというのでもなく、ただ、眺める時間。こんなにじっくりと眺めたことは今までなかったように思う。

鍵のかかってしまった箱を再び開けるには、私の知る限りでは、一人では不可能だった。一緒にこの箱についての会話をしてくれる人の存在が必要だ。一人で無理やりこじ開けようとした時には痛みが伴った。

しかし、箱の中身は、私とその誰かの会話を聞いているのだろう。きっと安心したのだろう。外に出ても、怖くないと思えたのだろう。自分から鍵を解いた。

多分、それが、うん。それだ。


【小林 玉季 Tamaki Kobayashi】

1991年11月16日11時16分、O型の父とO型の母の間に生まれる。さそり座の女。劇場を中心に活動していたが、劇場の外との対話から生まれる作品に興味を持ち始め、劇場の外ではとどまらず、好奇心のままに国外へ。そのうちに、日本・台湾・インドネシア、シンガポールのメンバーからなる、身体、精神、思考、創造の角度から一人一人のウェルネスをデザインする多国籍集団(5ToMidnight)と活動するようになる。2020に起きたこの出来事により、心の世界と身体の世界の関係に興味を持ち、幸せと健康を創造できる人間になるべく、現在は瞑想、ヨガ、仏教哲学、脳科学、解剖学を勉強中。

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