依田玲奈の言葉

わたしと演劇

〈ShipⅢ〉は、わたしにとって、演劇と自分と、人生について、問い続け、疑い続け、信じてみる、を繰り返し続ける時間だった。

プログラムの最初にそれぞれが受け持つ「わたしにとっての演劇」の時間に向けて、まず、なぜ自分が演劇をやっているのかを考えた。

わたしたちは普段、人生や生活の中で、何かを演じながら生きている。社会的な役割、立場であることもあれば、相手との関係性によって生まれる役もある。普段から演技をしながら生きているのに、なぜ、わたしは、舞台の上で、役を演じたいのだろうと考えた。

答えは、「わたしとあなたが、今、この瞬間に出逢うこと」が演劇だと信じているからだった。わたしとあなた、とは自分と他者、であるけれど、わたしと、まだ見ぬわたしというあなたとも言える。自分が、まだ出会っていない他者、自分自身、また瞬間や風景に出逢っていく、出会い直していく。それが、演劇だと信じている。そのために、俳優は、自分の身体を使って、自分の中や外にある感覚に言葉を与えていく。言葉は、そのまま台詞として、言葉のまま届くこともあるし、言葉ではない動きや、質感として、届くこともある。〈Ship Ⅲ〉の一週間を通して、瞬間を捕まえていくこと、全く同じ景色を見られない者同士が、どうやったら、瞬間を共に生きられるのかを追求したいと考えた。

最初の「わたしにとっての演劇」では、自分ではない他者と出会い、思いを馳せることをテーマに、この時間だけの名前を名づけ合う、部屋の中に自分の前世を見つける、そして最後に自分の普段の名前の由来を互いに語り、隣の人がその名前を自分の名前として語るワークを行った。

自分の名前は生まれて最初に与えられる自分の役だ。それを手放し、2時間だけ違う名前として生きる。生まれた場所でないこの空間に、自分の人生があったと信じてみる。このワークを通して、想像することの可能性と、自分でないものを扱うときの質感、その尊さ、そして、どんなに想像をしても、自分自身からは逃れられないことを痛感した。わたしも、あなたも、否定しない。そのままを受け入れ、ただ共に在ることを実現させるには、どうしたらいいかが、中間シェアへのはしごとなった。

 過去の〈Ship〉のレポートで読んで感じていた通り、滞在メンバーとの距離感は不思議だった。一週間同じ場所で滞在するが、各々が各々の演劇を追及しながら、たまに落ち合って話をする。同じワークをやってみる。そしてまた、各々の時間に戻っていく、というのが、会場の名前通り、波止場のようで面白かった。それぞれが自分の中に何を持っていて、何を置いていって、何を担いでいくのかをふんわりと感じながら、ラウンジでの会話を聞きながら、自分の一日を振り返り、次の日の行き先や荷物を決めていく時間が好きだった。ずっと一人だけど、ずっと他者がいる。このプログラムの特性ともいえる絶妙な関係性も、とても助けになった。

それぞれの「わたしにとっての演劇」や、互いにフィードバックするペアトーク、ワークショップを通して、それぞれが信じている「演劇」に触れる。浴びる。深く共感できるものも、初めて出逢うものも、自分の中にあるものと形を変えて出会い直すものもあった。同じスタジオでも、やる内容や人、その時の自分によって、違う景色になる。スタジオがずっとその場所にあって、ただわたしたちを受け入れてくれていた。それは、演劇だと思った。こう在りたいと思った。

 滞在中のフリータイムは、出来る限り、街を歩いて、その土地にしか無いものと出逢いたいと思っていた。それは、自分で定義した「出逢うこと」自体が演劇であるということもあったが、自分ひとりで考えるよりも、自分の予想できないものと出会い、刺激を受けたい思いが強かった。自分の中の世界に篭るのではなく、他者と出逢うこと、そのために、どうやったら自分の世界の外からわたしやあなたと出逢えるのか、がずっとテーマになっていたように思う。出逢いを求めて街を歩く中で、もう一つ、発表に向けて軸となるテーマと出会った。  

“見る/見られる”

のげやま動物園で見たチンパンジーは、わたしたち人間に見られることを何も気にしていない様子で、自由自在にケージの中を暴れまわっていた。ずっと見ていられる。けれど、その瞬間、確かにあちらも、見られていることを受け入れることで、わたしたち観客を見返している。サービスをするわけではないけれど、確かに、応えている。この見る/見られるの関係をやりたいなと思った。

動物園のある坂を下ってすぐの図書館の自習室に入る。青白い蛍光灯の下、ほとんどの人が音楽を聞きながら勉強している。隣の人をじっと見つめても気付かれない。見られていることを意識していない状態を見つめながら、ノートを書き、気付く。わたしは、自分の内に篭りやすいけど、音楽を聴くという手段では、自分だけの世界を構築しないし、おそらくできない。音楽を聴くと、自分のそれまで抱えていた領域を守るというよりも、その世界に入って浸ることを好む。これは、初日の小林さんの「わたしにとっての演劇」や、立本夏山さんのワークショップ中、音楽を聴いたときにも感じたことだった。この気付きも、公開シェアへのヒントになる。

横浜ロック座へ行く。常連らしき方々が優しく迎えいれてくださって、最前どセンターで女性の裸を見る。静かにじっと見る美術作品だと思っていたイメージが大きく崩れる。手拍子やコール、ファイヤー!タイガー!と叫びながら見るそれは、アートというよりコンサートで、とても見やすく、楽しみ方が提示されたエンターテイメントだった。与えられた持ち時間の中、衣裳や選曲、振付を自身で行い、一人で舞台に立ち、役を演じるストリップは一人芝居とも言えるが、わたしのやりたい演劇とは違うと感じた。演者が見方を限定し、提示するのではなく、観客がもっと自由に、見たいものを見たり、感じたりすることができないかと考えた。(公開シェアを終えた一ヶ月後の今振り返ると、普段自分が演技をしていて、物語や役に浸ってしまう状態があるとするなら、この見方を限定する状態なのだろうと考える。)  以上の経験から、公開シェアに向けて、自分の見ているものをどう相手と共有するかを考え、テキストを書いた。

あなたへ

初めてこの駅で降りたとき、思っていたよりも開けていて便利なところだなあと思ったのは、建物のすぐ裏手にまいばすけっとがあったからかもしれない。

まいばすけっとは安いし、24時間営業でないところがなんとなく安心する。

なぜかはまったくわからないけど。

あなたの笑顔は少し弱くて、威圧感がないから、こちらも笑わなきゃという気負いをせずにいられることがありがたかった。

ここは、黄金町にある、若葉町WHARF。

痛みは可視化できない。

わたしは、あなたが見ている景色をあなたとしてみることが絶対に出来ない。

その事実にどうしようもなく絶望する。

でもそれは希望でもある。わたしにしか見えない景色があるということ。

それがわたしの生きる理由。演劇をやる理由、なのかもしれない。

朝起きる。ここの枕は全然頭にあわない。

よく夢を見る。寝れてない証拠なのかもしれない。

眠りが浅いからか、刺激が多いからか、ここに来てからよく夢を見る。

夢にはそのときの心理がダイレクトに反映される。

不安なときは溺れる夢や追いかけられる夢ばかりを見るし、元気になってくるといわゆる吉夢を見る。わたしは素直なのかもしれない。

下手な占いよりも、夢占いにはそのときの自分が色濃く反映される。

夢によって自分を知る。

夢の中のわたしも、もしかしたら「あなた」という対象のひとつなのかもしれない。

「わたし」と「あなた」という境界線を引きたいと思うのは、それが絶対に共有できないものであるから。「ひとの気持ちがわかる」と言うひとのことを信頼できない。まじかよっておもう。そう言いたくなる気持ちはわかるけど、わたしは、わかりえないということを分かっている人のほうが、よほど信頼できる。

でも信頼ってなんだ、そんなに必要なものなのか?

委ねるということ。

他者に渡すということ。

あなたに渡したわたしの目でわたしと再会する。

 公開シェアの場所には劇場を選んだ。滞在前から、劇場があるなら劇場を使いたいな、となんとなく感じていたが、滞在を通して、劇場にわたしの演劇はある、と信じるようになった。舞台の上で、客席にいるあなたと、出逢おうと思った。

 公開シェアでは作品として自分の現在地を示したいと考えていたので、上記のテキストを書いていたが、中間シェアを終えて、言葉に頼らずにやってみたいと思い、公開シェアでは言葉を発さないことを決めた。テキストに書いたときの自分の問題や、感じた質感は残るだろうが、それを再現するのでなく、その場にあるのものを受け入れることに集中しようと思った。「わたしにとっての演劇」でも、中間シェアでも、普段の生活でも、自分の考えていることを言葉にすることに取り組み続けてきた自分が、それではたどり着けなった場所に手を伸ばすためには、言葉と違う形で関わることが必要不可欠だと感じたからだ。何かと出逢いたいと思うのなら、まずはわたしが、わたしと出逢わなくてはならないと考えた。いつもの自分におさまらないこと、伝えたい瞬間や質感と出会ったら、言葉ではない方法で伝えてみること、対象の見方や扱い方を限定せずに、その場にあるものをただ受け入れてみること。ただそこに在った、スタジオや街で出逢った人や動物や瞬間に演劇を感じたように、わたしにとっての演劇を、ただそこに在ることで、体現することを試みた。

 公開シェアがはじまる。客席の後ろから、舞台に行く。白い壁をなぞる。温度がある。硬さを感じる。劇場の外を車が通り抜ける。光のすきまからほこりが舞っている。床が軋む。客席が軋む。お客さんの肩が動く。見つめる。目が合っている。今、確かに同じ空間で、同じものを見ている。あなたの今日ここまでも、今日これからも知り得ないけれど、今、確かに、わたしたちは出逢っている。ほこりにあたる光が綺麗だなあと思ったら、それをどうにか、言葉ではない形で伝えてみる。言葉にしたら、もっとわかりやすく伝わったかもしれない。それでも、公開シェアで言葉を使わずに「わたしにとっての演劇」を伝えようとしたこと、それを発表とすることが、一週間の滞在を終えた自分の現在地だったと思う。

 今まで、演劇の中に、自分がある、という順番で考えていた「わたしにとっての演劇」は、プログラムを終えた直後は、自分の人生の中にどう演劇を置くか、と逆の関係性として考えていたが、一ヶ月経った今は、また違った感覚になっている。演劇は演劇として、わたしはわたしとして存在している。演劇の中にいるわたしも、わたしの中にある演劇も存在している。そして、滞在中、滞在を終えた後に触れてきたたくさんの「わたしにとっての演劇」が、一人ひとりに存在していることを、美しいと思う。

 東京へ戻ってから、いい加減な気持ちで物を買わなくなった。一週間の滞在の中で、これだけあればどこへでも行けるな、と思ったものが、持参した荷物よりもずっと少なかったこと、自分の心身の状態を整えるために必要なものがわかってきたこと、毎朝選ぶ洋服や、リップの色も、わたしにとっての演劇であっていいことに気付けたからだ。いついかなるときも、大切に出逢いたい。今書いていることが、いつまで自分の中で真実であるかはわからない。気付いたり、見直したりするうちに、全然違うことを考えたり、在り方が変わっていったりするかもしれない。それでも、わたしの人生には演劇があって、それは、わたしにとって良いことだ。と言えるようになったことが、一ヶ月経った今、自分の軸に加わった部分である。演劇の中にわたしの人生がある、だけでなく、わたしの人生の中にも、わたしの演劇があって、あなたにも、あなたの演劇がある。これからも、問い続ながら、考え続けながら、演劇と出逢っていきたい。


【依田 玲奈 Reina Yoda】

1993年生まれ、山梨県出身。2015年、明治大学文学部文学科演劇学専攻卒業。在学中では英語部に所属しながら、ジャンルを問わず、様々な舞台に出演。卒業後は俳優として舞台を中心に活動。近年は出演だけでなく、ワークショップ講師や、自身の企画にてひとりリーディングや一人芝居の構成、演出、出演にも臨む。2018年より、個人企画「just a(ジャスタ)」を始動。「わたしとあなた」「身体ひとつで劇場へ」をモットーに、瞬間と、瞬間で出逢うことを目指していく。

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